マーラーの生涯
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1857年
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ベルンハルト・マーラーとマリー・ヘルマンの悲しい結婚は1857年2月に行われた。2人はその後、現チェコのカリシュトへ移る。
貴族的な家で20年間生活したマリーにとって、そのときから屈辱と暴力の地獄の日々がはじまった。
マリーは彼の子供を14人生んだ。
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1860年
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長男は1859年の事故でこの世を去り、
翌年7月7日に生まれたグスタフが、長男として育てられる。
(生家)
その後、モラヴィア地方のイグラウに移住。
そこで12人の子供が生まれたが、その大半が短命に終わった。
狭いアパート、ベルンハルトの気難しい気性、絶え間なく小さな棺が必要な状況は、
マーラー家の雰囲気をいっそう暗いものにした。
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1863年
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1870年
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3歳のときに小さなアコーディオンを贈られ、これが鍵盤というものを知るきっかけとなる。
翌年、祖父母の家の屋根裏で見つけた古いピアノをいじっているうち、このアコーディオンのメロディが弾けるようになる。それを聞いてびっくりした祖父母はこのピアノをグスタフに贈った。
(5才)
10歳の頃には、イグラウ市での最初のピアノ独奏会を行うまでの腕前になる。
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1875年
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グスタフの演奏を聞いた音楽院教授のエプシュタインは、ベルンハルトに「あなたの息子は生まれながらの音楽家ですよ」と言った。
15歳でウィーンの音楽院に入学。当時この音楽院はワーグナー派とブラームス派に分かれていた。
(ウィーン) |
1876年
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1877年
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1876年と1877年に演奏解釈賞と作曲賞を受ける。
ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの対位法の講義を受け、2人の間に深い交際が始まる。 |
1878年
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1879年
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作曲賞を受け、音楽院を卒業。
ピアノのレッスンなどで生計をたてるものの、「謝礼を払ってくれないので一文無しだ」と言って友人に借金を申し込む。
19歳のマーラーは自分を神秘的なさまよえるユダヤ人と、捉えていた。
王立郵便局長の娘、ヨゼフィーネ・ボイスルに夢中になる。
しかしボイスル夫妻は娘に相応しい男性として、40歳の教師ユリウスを選んでいた。
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1880年
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20歳で菜食主義、社会主義に加えて、ワーグナーの崇拝者となる。相変わらずヨゼフィーネに恋焦がれ、3つの歌曲を作曲。
5月から、田舎町の小さな劇場で指揮者としてのキャリアを開始。
たいくつな仕事に耐えかね、契約を更新せずウィーンに出発。しかし職がないのに加え、ヨゼフィーネに失恋。失意のどん底に陥る。
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1883年
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貧しい部屋で憂鬱な日々を送る。指揮者の仕事をしていないときは、ホフマンを愛読。
9月にカッセル王立劇場の副指揮者となり、年収2,000マルクと諸手当という内容の3年契約を交わす。
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1884年
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当時最高の指揮者として認められていたハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが、
受け入れられなかった。
この頃、カッセル劇場の歌手のひとり、金髪のヨハンナ・リヒターに夢中になる。
暮らしは相変わらず厳しいまま。
3つの劇場に同時に雇って欲しいと手紙を書く。
この年の大晦日を、ヨハンナ・リヒターの家で一緒に過ごす。
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1885年
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1月《さすらう若者の歌》をヨハンナのために作曲。
カッセル劇場の支配人から、契約満了以前にリストラを告げられてしまう。
フェリックス・メンデルスゾーン≪聖パウロ≫で初めて有名な歌手たちを指揮。
25歳でプラハの劇場に主席指揮者として迎えられる。
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1886年
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2月、ワーグナー没後3周年記念祭で、≪パルジファル≫のいくつかの曲とベートーヴェンの《第9交響曲》を指揮。
プラハにおける幸福の頂点を迎える。
7月、プラハを後にし、ライプツィヒに到着。ライプツィヒ市立劇場の副指揮者となる。
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1987年
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「交響曲第1番 ニ長調」の作曲にとりかかる。
11月、ワーグナー未亡人コジマの前で≪ターンホイザー≫を演奏。
(指揮するマーラー)
両親に一躍金持ちになったと知らせる。 |
1888年
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3月に「交響曲第1番 ニ長調≪巨人≫」が完成。
ブダペスト王立歌劇場と一万フローリンの年収、4ヶ月の休暇という条件で契約を結ぶ。
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1889年
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2月に父ベルンハルトの死を告げる電報を受け取る。
仕事に追われながら、5月に痔の手術を受けた。
父続いて11月に母マリーが死去。
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1892年
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1895年
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ロンドンに招かれ、コヴェント・ガーデンでドイツ語オペラの連続演奏会を指揮。何もかもが順調に進み、名声を獲得。
夏にコレラが大流行。
アッター湖近くにあるシュタインバッハに作曲小屋を建てるよう、大工に頼む。
1894年にブラームスがバート・イシュルに滞在。マーラーはブラームスを訪れるが、議論好きのマーラーをブラームスはあまり好ましく思わなかった。
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1896年
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弟の死という悲劇のあとに、シュタインバッハの小屋で「交響曲第2番 ハ短調≪復活≫」を作曲。
(アッター湖にあるシュタインバッハの小屋) |
1897年
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1898年
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37歳にして名声の真っ只中、疲れきりながら「交響曲第3番 ニ短調」を作曲、ユダヤ教からカトリックに改宗。
38歳で官邸劇場の総監督に任命される。
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1899年
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南オーストリアのヴェルター湖岸のマイヤーニックに山荘を建てる。 |
1900年
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7月7日に40歳となり、人生が半ば過ぎながら独身であることに屈辱を感じていた。
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1901年
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11月、ツッカーカンドル家で夕食をとる。
そこには画家のグスタフ・クリムトと共に、アルマ・シントラーも招かれていた。
彼女は17歳のときにクリムトから強引に口説かれたことで、ウィーン中にその名を知られていた。マーラーはこのとき22歳の彼女を食事の後に誘おうとして断られる。
それでもくじけずに手紙を書くなどアプローチを続け、結婚を申し込まれるとアルマはそれを承知した。
(アルマ)
結婚前、「私の音楽をキミ自身の音楽と考えてもらえないか」とアルマに作曲を辞めるように申し出て、作曲の筆を断念する。アルマはツェムリンスキーに作曲を習い、14曲の歌曲を残していた。
「交響曲第4番ト長調 」を作曲。
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1902年
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3月、アルマ・シントラー(23歳)と結婚。翌日、ペテルブルグで演奏会の指揮をするためハネムーンをかねて出発。
6月、「第3交響曲」をアルマの前で演奏。これを聞いた彼女は涙を流して感動しながら夫に永遠の愛を誓う。
「交響曲第5番 嬰ハ短調」を作曲。
11月、長女マリア・アンナ誕生。 |
1903年
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1904年
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「交響曲第番6番 イ短調≪悲劇的≫」を作曲。
次女アンナ・ユスティーナ誕生。
シェーンベルクと知り合う。
(1904年の写真) |
1905年
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アルマとの仲がうまくいかなくなってくる。
「交響曲第7番 イ短調」を作曲。 |
1907年
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47歳、長女が死亡したショックで、マーラーとアルマは気が狂ったようになる。
更にマーラーは心臓病と診断され、アルマは体調を崩してしまう。
「交響曲第8番 変ホ長調≪千人の交響曲≫」を作曲。
12月、ニューヨークのメトロポリタン・オペラから招かれ渡米。
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1908年
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5月に休暇でウィーンに戻る。
「大地の歌」作曲後、再度渡米。
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1910年
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夫との性生活が途絶えて悶々としていたアルマに、若い建築家ヴァルター・グロービウスが言い寄ってくる。グロービウスは後のバウハウスの創設者として有名。
マーラーはアルマに自分とグロービウスのどちらを選ぶか迫り、アルマはマーラーのもとにもどることにした。
自分の性的不能と神経症を案じたマーラーは、精神分析医ジグムント・フロイトの診察を受ける。
彼は19歳年下の妻が自分から去ってゆくのではないかという強迫観念と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かんで来るという神経症状に悩まされていた。フロイトによってそれが幼児体験によるものであるとの診断された。その後、病状は改善される。
「交響曲第9番 ニ長調」を作曲。「交響曲第10番」にとりかかる。
(最後の写真)
アルマとの仲を改善するため、彼女の作曲した歌曲集をウィーンの出版社から出版させる。
ミュンヘンで「交響曲第8番」を自らの指揮で初演。
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1911年
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2月、扁桃腺炎を再発させながら、カーネギー・ホールで生涯最後の演奏会。
トスカニーニの圧力で、ホールはガラガラの状態だった。
翌週から病状はさらに悪化。心臓弁膜症をおこす。
5月11日、アルマと共にウィーンへ。
「自分の人生は紙切れのようだった」と繰り返し、容態は急激に悪化。
両足に腫瘍が現れる。
5月18日、拍子をとるかのように毛布を指で叩きながら
「モーツァルト…モーツァルト!」と呟き息をひきとった。
享年50歳。
(墓地)
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