リスト狂 リストの生涯 謎多き天才少年 ロマン主義アーティストとの出会い
ダグー伯爵夫人との恋愛 ピアニストとしての黄金時代 ワイマール宮廷楽長時代 交響詩の創案
挫折・カロリーヌとの結婚問題 宗教と教会音楽 晩年の活動 リストの最晩年・死ぬまでの6年間
ロマン主義アーティストとの出会い (1830-1839年)
1830年代のパリ、ロマン主義の幕開け

1830年からフランスでは産業革命が推し進められ、大資本に支えられて鉄道やガス灯の設置などが進み、パリでは華やかなサロン文化が繁栄していった。

このサロンを活動の拠点として、多くの芸術家たちがヨーロッパにおける芸術の中心を形成していったのである。画家のドラクロワ、詩人のユーゴー、作家のスタンダール、バルザック、サンドなど数え上げれば切りがない。音楽家もしかりで、ベルリオーズのようなフランス人はもちろん、この時期にパリで活動していた外国の音楽家は大勢いる。ケルビーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ、ワーグナー、オッフェンバック、ショパン、パガニーニ、メンデルスゾーン・・・。

このような環境の中で、まだ若いリストは多くの芸術家たちと交流して、自身の知識と経験を深めていったのである。
ベルリオーズの≪幻想交響曲≫

1830年12月にパリの音楽院ホールで行なわれたベルリオーズの≪幻想交響曲≫の初演は、フランスにおけるロマン派音楽の幕開けといってよいだろう。
エクトル・ベルリオーズ(1803-69)の表題(プログラム)と固定楽想という試みは、リストの音楽性や作曲法に大きな影響を与えたと思われる。

≪幻想交響曲≫初演の前の日にリストがベルリオーズを訪れたのが二人の初めての出会いで、それ以後は互いに共感を分かち合うようになる。リストは熱狂的に≪幻想交響曲≫を受け入れた。この曲の作品に「表題をつけるという試みは、リストが「表題音楽として確立した「交響詩」に大きな影響を与えたはずである。

リストは≪幻想交響曲≫全曲をピアノ独奏用に編曲して、1834年に自費出版している。この交響曲のスコアの出版は1854年までかかっているので、リストが≪幻想交響曲≫の普及に及ぼした力はかなり大きい。当時、交響曲のピアノ編曲は頻繁に行なわれていたが、ほとんどがアマチュアを対象にしたものだった。それに対し、リストの編曲は和声やリズムまで1音たりともおろそかにすることなく、鍵盤に置き換えられている。
もうひとりの超絶ピアニスト、ショパン

リストと同じように、ヨーロッパ東部からパリにやってきた
フレデリック・ショパン(1810-49)は。1832年2月のパリデビュー・コンサートで一気に時代の寵児となった。彼はポーランドで過ごした20年の間に、すでに多くの作品を書いていた。リストはこのコンサートに非常に感激して、賞賛を惜しまなかった。彼はショパンの天才を認め、芸術家としての価値を高く評価している。

それに対しショパンは、演奏家としてのリストは大いに認めたが、作曲家としてはあまり評価していなかった。彼は作品10の練習曲をリストにささげ、「リストが演奏したとき、ボクは自分の音楽をとても愛おしく感じる」とまで言っている。

ところが作曲家としてのリストには、「作曲家としてまダメですね。彼は他人の作品に乗っかって天上を目指しているようなところがあります」といった発言を残している。

1830年代前半、リストとショパンはしばしば行動をともにし、同じ舞台に何度も立っている。1830年代の後半にリストがパリを離れたこともあって、二人の関係は少なくなったようだが、リストは演奏会でしばしばショパンの曲を演奏するなど、彼に対する敬意をなくすことはなかった。
パガニーニと超絶技巧への道

ヴァイオリン奏者件作曲家ニコロ・パガニーニ(1782-1840)は、同世代の演奏家たちに強烈な影響を与えた。技巧の可能性を飛躍的に高めたパガニーニは演奏家として超人的技巧をもっていただけでなく、超人的技巧を必要とする作品を数多く作曲した。これまでに書かれた作品では自分の並外れた技巧を表現することが出来なかったため、彼はそのための作品を自ら作曲しなくてはならなかったのである。

パガニーニのパリにおける演奏会は1831年3月だが、リストはその翌年1832年4月に初めてパガニーニの演奏に接し、大きな衝撃を受けている。

僕はピアノのパガニーニになってみせる!

それがダメなときは気が狂ってしまうだろう


そう宣言したリストはオクターブ、トレモロ、カデンツァなどを1日4〜5時間練習している。そして≪パガニーニの鐘に基づく華麗なる大幻想曲≫を作曲している。

ショパンをはじめ多くの作曲家は、自分の内的なものを表現しようと努めた。モーツァルトやベートーベンのピアノ協奏曲には技巧を引き出す意味もあったが、その場合でもやはり音楽が主体である。しかしパガニーニはあくまでも自分の技巧を最大限に表現するために作曲した。技巧を引き出すのに都合のよい楽想が選ばれ、主題や旋律が作りだされたのである。

パガニーニの名人芸を継承したリストは、ひとまずそれをピアノの世界で完成しようとして、≪超絶技巧練習曲≫(37年の第2稿)や≪パガニーニによる大練習曲≫などを作曲した。ここでは演奏家に対し第一級の演奏技巧を要求している。そしてリストの名人主義は、

ピアノをオーケストラ的に扱う

という特徴を生み出した。このようにパガニーニは、リストとても大きな影響を与え、彼の作曲様式の基本的要素のひとつとなったのである。

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