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晩年の活動 (1870〜1886)
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1年間に3つの都市を住み分ける生活
さらに必要に応じてウィーンやバイロイトにも立ち寄っているので、かなり忙しい生活だったと思われる。移動には現在よりもはるかに時間と労力がかかっていた時代であり、しかもその費用はリストが払っていた。この時期にリストの作品はそれほど売れていたわけではなく、しかも演奏は慈善活動、弟子の指導も無報酬であったため、彼の財産は次第に厳しくなっていった。それでもバッハ生誕200年の記念碑に3,000ターラーの寄付を行なっている。 |
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忙しい日々
1870年5月にベートーベンの生誕100年を祝う演奏会が開かれ、リストは≪ピアノ協奏曲第5番≫と≪第9交響曲≫を指揮した。73年にはリスト自身の芸術活動50周年を祝う式典がブダペスト国家をあげて行なわれる。 1875年にリストが院長を務めるハンガリー王立アカデミーが開校、1876年8月にバイロイト祝祭劇場の柿落しに出席したさい、チャイコフスキーと会っている。 |
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相次ぐ知人の死
この頃になると、リストの元に相次いで訃報が届けられる。1872年に初恋の人カロリーヌ・ド・サン・クリックがパリで他界。76年にはリストの3人の子供の母となったダグー夫人が、同じくパリで行きを引き取った。さらに1883年に娘コジマの亭主でもあるリヒャルト・ワーグナーが、ヴェネチアで死去。これらの悲しい知らせは、老境にさしかかったリストにとって、「死」を強く意識させられるきっかけとなったのではないだろうか。 |
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教育者として
若い頃からリストには弟子が多かった。リストがその長いキャリアの中で教えた弟子の数は 400人以上! と言われていて、ヨーロッパだけではなく、アメリカやロシア、トルコなど世界各地に及んでいる。もっともリストの弟子ということにしておけば箔がつくわけなので、勝手にそう名乗っていた人物も多くいたのではなかろうか。
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ワーグナーとコジマ、そしてリストとの関係
1873年にワイマールで行なわれたリストのオラトリオ≪キリスト≫にワーグナー夫妻は出席したが、楽曲に対するふたりの感想は複雑だった。作曲家の老いは明らかで、かれらの評価は決して高いものではなかった。
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天才の晩年 リストは自分の作品の評価に関して無関心ではなかったが、自分の生前に自作が評価されることに関しては、早くから諦めていたようである。新しい音楽の形式として彼が確立した交響詩の中には、当時から比較的知られている作品もあったが、それでも同時代のたとえばワーグナーの作品などに比べると、明らかに知名度は低かった。 彼は自分の作品がたとえ評価されなくても、「作曲し続けるだけで満足」と周囲に語っていた。特に晩年のリストの作風は、当時の一般的な趣味からかけ離れている事実を、彼自身が一番よく自覚していた。 リストがカロリーヌに宛てた手紙は有名である。 「私はとても不愉快だ。私の作品は売れないんだ。だからといって私の作品がヴィットやハーベルルより劣るとは思っていない。私がドイツの聖ツィツィーリア教会の運動に対して力を尽くすのを、誰も止めることはできないはずだ。私は決心した。私は一般の人がやるようなやり方はしないつもりだ。」 作曲家としての名声は低くとも、音楽家としてのリストの地位は圧倒的である。周囲は常に彼を慕う人たちがとりまき、安定した経済力を保ち続けた。確かに悩みは苦悩はあったかもしれないが、それでもやはり彼の晩年は幸福だったと考えるべきではないだろうか。 |
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