リスト狂 リストの生涯 謎多き天才少年 ロマン主義アーティストとの出会い
ダグー伯爵夫人との恋愛 ピアニストとしての黄金時代 ワイマール宮廷楽長時代 交響詩の創案
挫折・カロリーヌとの結婚問題 宗教と教会音楽 晩年の活動 リストの最晩年・死ぬまでの6年間
晩年の活動 (1870〜1886)
1年間に3つの都市を住み分ける生活 

アレクサンダー大公から執拗に戻ってくるように懇願されたリストは1870年3月から二ヶ月間ワイマールに帰還する。その後イタリア軍の教皇領侵略のため、ローマに8ヶ月間ハンガリーに滞在。それからもローマに戻れない状況が続き、その間に王立アカデミーで指導的役割を依頼される。

さらにリストは翌年、ハンガリー王室顧問に任命され、年間4,000フリントを支給されることになった。そして亡くなるまでの17年間、ブダペストの音楽教育において中心的な役割をはたすとになる。

そうしてリストは1年間に3つの都市を住み分ける生活を始めることになった。春はブダペスト、夏はワイマール、秋から冬にかけてはローマという具合である。リストはこの生活を「三分割の生活」と呼んでいる。

晩年のリスト

さらに必要に応じてウィーンやバイロイトにも立ち寄っているので、かなり忙しい生活だったと思われる。移動には現在よりもはるかに時間と労力がかかっていた時代であり、しかもその費用はリストが払っていた。この時期にリストの作品はそれほど売れていたわけではなく、しかも演奏は慈善活動、弟子の指導も無報酬であったため、彼の財産は次第に厳しくなっていった。それでもバッハ生誕200年の記念碑に3,000ターラーの寄付を行なっている。
忙しい日々

ワイマールにアレクサンダー大公が用意した家は、現在リスト博物館となっている。大公自身が家具や調度品を揃え、リストは「ワーグナー並みの贅沢」と評している。彼はここで午前中はミサ、作曲、午後は訪問者と合い、夜は社交活動という、自由実した規則正しい生活を送っていた。

それに対し、ローマにホーンローエ枢機卿から提供されたエステ荘の一室は、ピアノの他に家具もなく、冬は凍てつくような寒さだった。それでもリストはここでの生活を気にいていた。

ハンガリーでは音楽院設立のために奔走、ヨーロッパ各地に住んでいる弟子たちの演奏会への出席、想像を絶するまでの手紙の執筆、60歳近い老齢の身にはかなりきつい暮らしだったはずだ。
ワイマールの家(現在はリスト博物館となっている)

1870年5月にベートーベンの生誕100年を祝う演奏会が開かれ、リストは≪ピアノ協奏曲第5番≫と≪第9交響曲≫を指揮した。73年にはリスト自身の芸術活動50周年を祝う式典がブダペスト国家をあげて行なわれる。

1875年にリストが院長を務めるハンガリー王立アカデミーが開校、1876年8月にバイロイト祝祭劇場の柿落しに出席したさい、チャイコフスキーと会っている。
相次ぐ知人の死

この頃になると、リストの元に相次いで訃報が届けられる。1872年に初恋の人カロリーヌ・ド・サン・クリックがパリで他界。76年にはリストの3人の子供の母となったダグー夫人が、同じくパリで行きを引き取った。さらに1883年に娘コジマの亭主でもあるリヒャルト・ワーグナーが、ヴェネチアで死去。これらの悲しい知らせは、老境にさしかかったリストにとって、「死」を強く意識させられるきっかけとなったのではないだろうか。
教育者として

若い頃からリストには弟子が多かった。リストがその長いキャリアの中で教えた弟子の数は

400人以上!

と言われていて、ヨーロッパだけではなく、アメリカやロシア、トルコなど世界各地に及んでいる。もっともリストの弟子ということにしておけば箔がつくわけなので、勝手にそう名乗っていた人物も多くいたのではなかろうか。

リストのもとに集まってきたのは弟子たちばかりではない。次の世代を代表する多くの作曲家たちも、リストを表敬訪問している。その中には弟子になったものもいれば、出世のきっかけにしようとしたものもいたはずだが、リストは誰に対しても惜しみない援助を行なった。

1870〜80年代にリストは、ヨーロッパ音楽界の中心人物とされていたのである。歴代の有名な音楽家の中で、リストのような栄光を手に入れた人物はほとんど皆無といってよいのではないだろうか。
大勢の弟子に囲まれるリスト
ワーグナーとコジマ、そしてリストとの関係

弟子のハンス・フォン・ビューローから、ワーグナーがリストの娘コジマを奪って依頼、ワーグナーとリストの関係は複雑にこじれていた。コジマは1857年にリストの弟子、ビューローと結婚して子供をふたりもうけたが、1864年に愛人関係になった。

この一件でリストとワーグナーは大口論となり、約5年間絶縁状態となった。それでもリストは1869年には≪ラインの黄金≫のリハーサルを、翌年には≪ラインの黄金≫と≪ワルキューレ≫を観るためにミュンヘンまで足を運んでいる。

人物は認められなくても、作品に対する興味はこらえられなかったのだろうか。

1872年になると、リストとワーグナーは和解する。ワーグナーはこの年の5月に予定されていた、バイロイト祝祭劇場の定礎式にリストを招待するため、仲直りを願う率直な手紙を送っている。その後はお互いに訪問しあうようになり、ワーグナーはリストに≪パルジファル≫の台本を読んで聞かせたりしている。
ワーグナーとコジマ、1872年5月

1873年にワイマールで行なわれたリストのオラトリオ≪キリスト≫にワーグナー夫妻は出席したが、楽曲に対するふたりの感想は複雑だった。作曲家の老いは明らかで、かれらの評価は決して高いものではなかった。



少なくともリストはワーグナーの楽曲を高く評価していた。ワーグナーのどうしょうもない性格を分かっていても、その才能は認めざるを得中なかったである。

それに対し、ワーグナーのリストの作品に対する評価は低いものだった。芸術家としてのレベルでみれは、この時期の彼らの差が明らかなのは確かである。

しかしワーグナーは、金銭的、政治的な援助をリストから受けていたこともあり、人間としての彼は高く認めていた。
ワイマールの家、リストの書斎
天才の晩年

リストは自分の作品の評価に関して無関心ではなかったが、自分の生前に自作が評価されることに関しては、早くから諦めていたようである。新しい音楽の形式として彼が確立した交響詩の中には、当時から比較的知られている作品もあったが、それでも同時代のたとえばワーグナーの作品などに比べると、明らかに知名度は低かった。

彼は自分の作品がたとえ評価されなくても、「作曲し続けるだけで満足」と周囲に語っていた。特に晩年のリストの作風は、当時の一般的な趣味からかけ離れている事実を、彼自身が一番よく自覚していた。

リストがカロリーヌに宛てた手紙は有名である。

「私はとても不愉快だ。私の作品は売れないんだ。だからといって私の作品がヴィットやハーベルルより劣るとは思っていない。私がドイツの聖ツィツィーリア教会の運動に対して力を尽くすのを、誰も止めることはできないはずだ。私は決心した。私は一般の人がやるようなやり方はしないつもりだ。」

作曲家としての名声は低くとも、音楽家としてのリストの地位は圧倒的である。周囲は常に彼を慕う人たちがとりまき、安定した経済力を保ち続けた。確かに悩みは苦悩はあったかもしれないが、それでもやはり彼の晩年は幸福だったと考えるべきではないだろうか。




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