リスト狂 リストの生涯 謎多き天才少年 ロマン主義アーティストとの出会い
ダグー伯爵夫人との恋愛 ピアニストとしての黄金時代 ワイマール宮廷楽長時代 交響詩の創案
挫折・カロリーヌとの結婚問題 宗教と教会音楽 晩年の活動 リストの最晩年・死ぬまでの6年間
ダグー伯爵夫人との恋愛(1833-1844)
ダグー夫人との情事

ダグー夫人とリストの有名な情事の話はとても込み入っていて、全容を現そうとしたら分厚い本1冊でも足りないだろう。いくつかのエピソードはバラバラの形だが出版されている。しかしどちらかの側にたったものばかりで、公平な立場で書かれたものは皆無である。

当時、パリの貴族の多くは、結婚後に恋愛を楽しんだと言われ、上流階級では不倫が大流行だった。なのでリストとマリーの恋愛はショッキングな話題だったかもしれないが、パリ社交界から疎まれるようなことはなかった。ただし愛人関係にある2人が子供までつくってしまうことは異例だった。

ピアニストとして絶頂の時期のリストと、6つ年上のパリの「三大美人」のひとりと言われ社交界の花形だったマリー、ふたりの関係は

ロマン主義的恋愛物語の模範例

のような扱いとなってしまったようだ。リストとの関係においては、このプライドの高かったマリーは、パリの寵児であったリストを愛したものの、彼の音楽的成長にはあまり関心がなかったように評伝にかかれているが、彼女に関しての評価は不当だという見方も多い。
マリー・ダグー伯爵夫人

マリー・ダグー伯爵夫人(1805-75)はフランクフルトの銀行家の血筋を引くフランス子爵家の令嬢で、20歳も年上の騎士隊仕官ダグー伯爵と1827年5月に結婚した。そして2人の子供をもうけている。しかし5年後には2人の間は形骸化し、その生活は無意味で意味のないものとなっていた。

パリ社交界の花形として活躍していた彼女は、知性にあふれた彫り高き女性で、表面的な性格は沈着冷静、しかし内面には熱い情熱を秘めていたと言われる。

リストとマリーはサロンという人為的な雰囲気の中で知り合った。リストはブリュナレード夫人との恋愛に成功したばかりだったので、自信にあふれていた

ダグー夫人の肖像画
身分の違いをものともせず、気に入ったらどんな女性でも手に入れてしまう・・・まさに

女たらしリストの本領発揮である。
スイス旅行・・・不倫旅行と一人目の子供

1835年、マリーは5月28日、リストは6月1日にパリを出発し、ライン川沿いのバーゼルのホテルに泊まり、6月4日に落ち合った。そして14にスイスに出発。

この旅行の思い出としてリストが後に作曲したのが、≪巡礼の年、第1年:スイス≫である。

ライン川に沿って東へ進み、7月19日の夕刻にスイスのジュネーブに到着。馬車での移動はかなり大変だったようで、このとき妊娠していたマリーは体調を崩している。28日に住居を定めると、リストはジュネーブ音楽院の教師となった。


そして12月18日にブランディーヌが生まれた。出世記録にはリストが父親であることが、はっきりと記されているが、母の名は偽名が使われた。

ブランディーヌは生まれるとすぐに里子に出された。そして1836年の4月から6月にかけて、ひとりでフランスに向かったリストは、5回の公演を行なうとすぐにマリーの待つジュネーブに戻った。9月にはリストとマリーはモン・ブランの麓でジョルジュ・サンド親子と合流。スイスの学者アドルフ・ピクテを加えた一行は、各地を旅行している。

リストとマリーは10月16日にパリに戻ると、ラフィット通りに居を構えた。ここがマリーの新しいサロンとなり、このサロンでリストはサンドにショパンを紹介した。
ライバルへの嫉妬?

リストとマリーがパリを離れていた1835年から36年の間に、ジギスムント・ターヅベルクという名のピアニストがパリでデビューして話題となっていた。またたく間にパリの寵児となった彼は、リストに匹敵するピアニストとみなされるようになった。

リストは1837年1月にタールベルクに関する著作を発表。この中で
タールベルクを酷評する。これはリストのライバルに対する嫉妬とみなされ、逆にタールベルクの評価を高めることとなった。実際にはこの著書はマリーが書いたものとも言われているが、真相ははっきりしていない。

さらに批評家のフェティスが、「プロとしての嫉妬」とけなしたため、リストとフェティスの間で有名な論争が起こった。そして1837年3月にはリストとタールベルクの競演が、パリのベルジョイオーソ公爵夫人邸で行なわれる。このとき使われたピアノの鍵盤が象牙であったことから、2人この競演は
「象牙の戦い」としてパリの音楽界をにぎわせた。このときのチケット代は40フラン(労働者の1ヶ月分の収入)という法外なものだった。

結果的に2人の競演は痛みわけということになっている。これはフェティスが原稿を書いている雑誌「ガゼット・ミュジカル」誌の編集者、シュレジンガーが策を労した可能性がある。シュレジンガーはリストとフェティスの論争を煽り、雑誌の売り上げを伸ばしていた。リストはそれを知っていながら、自分の演奏会や著作出版のために便宜を図ってくれるシュレジンガに恩を感じていたので、タールベルクとの競演に賛同したというわけだ。
イタリア旅行と2人目の子供

1837年4月にリストはマリーとともに再びパリを後にし、サンドのいるノアンに、客として7月まで滞在した。

その後イタリア各地を旅行。「神曲」をはじめとする多くの文学にも親しみ、この年のクリスマス・イブに
2人目の子供、コジマが生まれた

1837年後半から、リストはしばしばミラノを訪れた。そして演奏会や出版社と契約を交わすなど、生活の基盤を着実に築いてゆく。

1838年3月半ばからヴェネチアに滞在していたリストとマリーは、4月と5月をウィーンで過ごし、イタリアの各地で演奏会を開いた。秋から冬にかけて滞在したフィレンツェでは3歳になっていた娘、ブランディーヌと合流。3人はローマに移る。
ダグー夫人の肖像画

1837年から39年にかけてのイタリア滞在期間中に、リストは≪巡礼の年、第1年:スイス≫
≪巡礼の年、第2年:イタリア≫、さらに≪ヴェネツィアとナポリ≫の初稿を作曲している。

この頃からリストとマリーの関係には亀裂が入り始める。ウィーンに出かけたリストが浮気しているのではないかと疑うマリー。根拠のない嫉妬に狂った彼女は、自分自身の再出発のため、2人の娘を連れてパリに戻ってしまう。ひとりフィレンツェに残されたリストは、演奏会旅行の準備をするとウィーンへ旅立つ。そしてこれが伝説的なヴィルトオーソとしての、リストの活動の幕開けとなった。
破局

演奏活動のため各地を駆けずりまわるリストは、パリのマリーと会う時間がなかなか取れない。そしてついに1844年5月にふたりは別れることとなった。マリーはリストを

成り上がりもののドン・ジュアン

と呼んだが、それだけリストの女性関係は派手だったようだ。マリーはパリで作家としての活動を始め、1844年の夏に

暴露本の元祖

ともいえる。
「ネリダ」という小説を発表する。それは明らかにリストとマリーをモデルにしていて、無能の画家(リスト)に騙されたヒロイン(マリー)の話となっている。リストに対しての当てつけなのは明らかだが、リストは自分がモデルでありことは否定し続けた。
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