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ダグー伯爵夫人との恋愛(1833-1844)
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ダグー夫人との情事
のような扱いとなってしまったようだ。リストとの関係においては、このプライドの高かったマリーは、パリの寵児であったリストを愛したものの、彼の音楽的成長にはあまり関心がなかったように評伝にかかれているが、彼女に関しての評価は不当だという見方も多い。 |
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マリー・ダグー伯爵夫人
女たらしリストの本領発揮である。 |
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スイス旅行・・・不倫旅行と一人目の子供
1835年、マリーは5月28日、リストは6月1日にパリを出発し、ライン川沿いのバーゼルのホテルに泊まり、6月4日に落ち合った。そして14にスイスに出発。 この旅行の思い出としてリストが後に作曲したのが、≪巡礼の年、第1年:スイス≫である。 ライン川に沿って東へ進み、7月19日の夕刻にスイスのジュネーブに到着。馬車での移動はかなり大変だったようで、このとき妊娠していたマリーは体調を崩している。28日に住居を定めると、リストはジュネーブ音楽院の教師となった。 そして12月18日にブランディーヌが生まれた。出世記録にはリストが父親であることが、はっきりと記されているが、母の名は偽名が使われた。 ブランディーヌは生まれるとすぐに里子に出された。そして1836年の4月から6月にかけて、ひとりでフランスに向かったリストは、5回の公演を行なうとすぐにマリーの待つジュネーブに戻った。9月にはリストとマリーはモン・ブランの麓でジョルジュ・サンド親子と合流。スイスの学者アドルフ・ピクテを加えた一行は、各地を旅行している。 リストとマリーは10月16日にパリに戻ると、ラフィット通りに居を構えた。ここがマリーの新しいサロンとなり、このサロンでリストはサンドにショパンを紹介した。 |
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ライバルへの嫉妬?
、リストとマリーがパリを離れていた1835年から36年の間に、ジギスムント・ターヅベルクという名のピアニストがパリでデビューして話題となっていた。またたく間にパリの寵児となった彼は、リストに匹敵するピアニストとみなされるようになった。 リストは1837年1月にタールベルクに関する著作を発表。この中でタールベルクを酷評する。これはリストのライバルに対する嫉妬とみなされ、逆にタールベルクの評価を高めることとなった。実際にはこの著書はマリーが書いたものとも言われているが、真相ははっきりしていない。 さらに批評家のフェティスが、「プロとしての嫉妬」とけなしたため、リストとフェティスの間で有名な論争が起こった。そして1837年3月にはリストとタールベルクの競演が、パリのベルジョイオーソ公爵夫人邸で行なわれる。このとき使われたピアノの鍵盤が象牙であったことから、2人この競演は「象牙の戦い」としてパリの音楽界をにぎわせた。このときのチケット代は40フラン(労働者の1ヶ月分の収入)という法外なものだった。 結果的に2人の競演は痛みわけということになっている。これはフェティスが原稿を書いている雑誌「ガゼット・ミュジカル」誌の編集者、シュレジンガーが策を労した可能性がある。シュレジンガーはリストとフェティスの論争を煽り、雑誌の売り上げを伸ばしていた。リストはそれを知っていながら、自分の演奏会や著作出版のために便宜を図ってくれるシュレジンガに恩を感じていたので、タールベルクとの競演に賛同したというわけだ。 |
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イタリア旅行と2人目の子供
1837年から39年にかけてのイタリア滞在期間中に、リストは≪巡礼の年、第1年:スイス≫と≪巡礼の年、第2年:イタリア≫、さらに≪ヴェネツィアとナポリ≫の初稿を作曲している。 この頃からリストとマリーの関係には亀裂が入り始める。ウィーンに出かけたリストが浮気しているのではないかと疑うマリー。根拠のない嫉妬に狂った彼女は、自分自身の再出発のため、2人の娘を連れてパリに戻ってしまう。ひとりフィレンツェに残されたリストは、演奏会旅行の準備をするとウィーンへ旅立つ。そしてこれが伝説的なヴィルトオーソとしての、リストの活動の幕開けとなった。 |
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破局 演奏活動のため各地を駆けずりまわるリストは、パリのマリーと会う時間がなかなか取れない。そしてついに1844年5月にふたりは別れることとなった。マリーはリストを 成り上がりもののドン・ジュアン と呼んだが、それだけリストの女性関係は派手だったようだ。マリーはパリで作家としての活動を始め、1844年の夏に 暴露本の元祖 ともいえる。「ネリダ」という小説を発表する。それは明らかにリストとマリーをモデルにしていて、無能の画家(リスト)に騙されたヒロイン(マリー)の話となっている。リストに対しての当てつけなのは明らかだが、リストは自分がモデルでありことは否定し続けた。 |
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