リスト狂 リストの生涯 謎多き天才少年 ロマン主義アーティストとの出会い
ダグー伯爵夫人との恋愛 ピアニストとしての黄金時代 ワイマール宮廷楽長時代 交響詩の創案
挫折・カロリーヌとの結婚問題 宗教と教会音楽 晩年の活動 リストの最晩年・死ぬまでの6年間
ピアニストとしての黄金時代 (1839-1847年)
音楽史上初めての独奏会

1839年3月8日、西洋音楽史上、初めてとなる独奏会をリストは開いた。「私は思い切って、完全にひとりきりで演奏会を開きました。ルイ14世のようにまるで騎士を気取って」ベルジョイオーソ公爵夫人宛の手紙にこう綴っている。

この年5月には長男が誕生して妻と子供たちはパリに向かい、リストは
ウィーンへ赴いて舞台に立った。

それは不世出のピアニストとしての、

歴史的な栄光の幕開けであった。

それ以降1849年9月にウクライナで開かれた演奏会にいたるまで、8年間で約1,000回のコンサートを開いたといわれている。ほぼ3日に1回の割合!全ヨーロッパを股にかけての大演奏旅行で、移動はほとんど馬車という過酷なものだった。

その中でも1841年12月の終わりから3月初旬にかけてベルリンで行われた演奏は、空前の大成功だった。21回の演奏会で約80曲を弾きこなし、そのうち50曲は暗譜だったといわれている!そしてベルリンを去るリストを一目見ようと群集が押し寄せ、パニックを引き起こした。その熱狂ぶりは
「リストマニア」と呼ばれるほど、大変なものだった。

たびたびリストは勲章をつけてステージに上がり、国王並みの大歓声を浴びた。これはリストの名誉欲、見得もあったかもしれないし、一部で嘲笑の的となったりもした。しかしこのような絶頂のさなかにありながら、「聴衆の喝采がなんだというんだ!」「自分がどんなに嘆いているか、誰も想像できないだろう」そうこぼしている。約8年間の演奏旅行は、リストに莫大な名誉と金をもたらしたと同時に、かなりの肉体的疲労と精神的苦痛を強いることになった。

リサイタルの創始者

こうした演奏活動を通じてリストはピアノ・コンサートのスタイルを確立した。バッハから当時の作品までをレパートリーとしたこと、基本的に暗譜で演奏したこと、

ピアノを客席に向かって右向きにおいたこと、
ピアノの蓋を開けて演奏したこと、

これらはリストが始めたことだといわれている。そして特筆すべきは「リサイタル」の創始である。1839年3月にひとりで演奏会を行ったときは「リサイタル」とはいわれなかったが、1840年6月にロンドンで開かれた演奏会の告知で、初めて「リサイタル」という言葉が使われている。今でこそ当たり前のリサイタル(コンサート)だが、当時は様々なジャンルの作品を複数の演奏家が行うのが常識であった。それをリストは覆したのである。

演奏曲リスト

ロンドンで開かれた史上初のリサイタル(1839年3月)---------------------

1:ベートーベン「田園」からスケルツォとフィナーレ(リスト編)
2:シューベルトの「セレナード」と「アヴェ・マリア」(リスト編)
3:ヘクサメロン(リスト)
4:ナポリのタランテッラ(リスト)
5半音階的大ギャロップ(リスト)



ミュンヘンでのリサイタル(1343年12月)---------------------

1:ベートーベン「悲愴」ソナタ
2:夢遊病の女の主題による幻想曲(リスト)
3:ロッシーニの「タランテッラ」
4:ショパン「マズルカ」
5:正教徒からのポロネーズ(リスト)
6:バッハの「フーガ」嬰ハ短調
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