リスト狂 リストの生涯 謎多き天才少年 ロマン主義アーティストとの出会い
ダグー伯爵夫人との恋愛 ピアニストとしての黄金時代 ワイマール宮廷楽長時代 交響詩の創案
挫折・カロリーヌとの結婚問題 宗教と教会音楽 晩年の活動 リストの最晩年・死ぬまでの6年間
挫折・・カロリーヌとの結婚問題 (1858-1864年)
官邸楽長辞任 

リストは約10年で官邸画口調を辞任することになる。その原因は弟子のコーネリアスが作曲したオペラ≪バグダッドの理髪師≫の上演が、観客の野次によって妨害されたためである。

リストは一連の反対勢力の動きを自分に向けられたものととらえ、1859年の2月にアレクサンダー大公宛で辞表を出した。大公はその後2年にわたってリストを復職させようとしたが、願いはかなわなかった。

この辞職にはもっと大きな問題が背景にあった。ワイマール官邸劇場ではオペラや演奏会と同じように、演劇も上演されていたのである。劇作家のデンゲルシュテッドはミュンヘンの劇場を解雇されたところを、リストに見出されてワイマールに来たのだが、感情の起伏が激しい彼はワイマールで劇場勢力を充実させるための試みを次々と行なった。
そしてリストのオペラ上演の妨害にも加担していたのである。

また、大公妃パブロヴァが1859年6月に死去するが、リストの支持者だった彼女の健康が思わしくなくなることで、リストの官邸での発言力にも影響がでていたものと思われる。
ローマへの移住

ワイマールの官邸楽長を辞任してから、リストは誰にも邪魔されずに自分の音楽に専念することを望んでいた。そんなときに彼はグスタフ・
ホーンローエという人物に出会い、彼から宗教音楽への取り組みを薦められる。もともと宗教音楽に対しても感心のあったリストは、グスタフによってその気持ちをますます傾斜させていく。

自分のよき理解者になるかもしれないグスタフのいるローマ、ヴァチカンの総本山であり教皇がいるローマこそが自分にとってふさわしい場所ではないかとリストは考える。
不幸な父親・・ふたりの子供の死

1859年12月に、ひとり息子のダニエルが20歳で亡くなっている。かれはハンス・フォン・ビューローとコジマの住むベルリンの家に滞在中に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。彼はリストのこどもの中では特に才能があったと言われ、法律や語学の勉強に取り組んでいた。

さらに1862年9月には長女のブランディーヌが、産後の肥立ちが悪くて死亡する。彼女はその2ヶ月前にリストの初孫を生み、ダニエルと名付けていた。

ふたりの孫の死はリストにとって相当のショックだったようで、彼は死について真剣に考え始める。そして悲しみからの救済をテーマとした宗教曲なピアノ曲≪泣き、嘆き、憂い、おののき≫と≪「ロ短調ミサのクルチフィクス」の動機にもとづく変奏曲≫などを作曲している。
カロリーヌとの結婚問題

1847年にリストと出会い、ワイマールに住むようになったカロリーヌはすぐに恋におちてしまう。そして彼女はロシアでのニコラス公との結婚は強制的なものであったために法律上無効だと主張する。しかしロシアの皇帝から1854年に出された帰国命令を無視したために、財産を没収されロシアの市民権も剥奪されてて亡命者扱いとなっていた。リストも真剣にカロリーヌとの結婚を考えていた。そしてリストはカロリーヌとの結婚問題を解決するために、ローマ教皇丁にかけあうことにした。彼女はカソリックなので離婚が認められていなかったのだ。

さらに1861年5月に1ヶ月パリに滞在したリストは、カロリーヌへの援助のために、2万3,000フランをロスチャイルド銀行から引き出している。

リストは財産をロスチャイルド銀行に預けていたが、その額は

約22万フラン(2億2,000万)

であった。パリに向かう前にリストは遺書を書いている。相続人はカロリーヌになっていて、その管理と投資は全て彼女に任せることになっていた。ふたりの娘、ブランディーヌとコジマにも分与を行なうよう指示してあったが、その条件として彼女たちが、カロリーヌに対して敬意をもって孝行することを条件にしている。

1852年にニコラス公がワイマールを訪れ、リストも交えて話し合いが持たれた。そしてカロリーヌが再婚する際には、彼女の財算の7分の1をニコラス公に、残りをふたりの娘マリーに贈ることで、契約が成立した。

そんな結婚問題に直面していながら一方でリストは
ピアノの弟子であるアニエスという女性と逢引を重ねていた。

色男の女好きは相変わらずである。リストとは別に単身ローマに乗り込んだカロリーヌは、枢機卿会議でロシアでの結婚は強制的なものであることを主張するなど、宗教的な離婚問題を解決することに成功する。彼女はその直後、リスト宛に

「完全な勝利です!」

と手紙を送っている。まさに女の執念恐るべし。
満50歳の誕生日に再婚・・・のはずだった

リストはカロリーヌの待つローマに赴く。その日のうちに結婚の誓約書にサインそて、リスト50歳の誕生日にめでたく再婚する予定で幸せいっぱいのふたり。

しかしカロリーヌのロシアでの結婚は強制的ではなく、彼女の主張が真実ではなかったと証言する人物が現た。そしてヴァチカンから式の延期を言い渡されてしまい、彼らの結婚問題は振り出しに戻ってしまう。

この妨害に関しては、リストとカロリーヌの結婚に反対していたグスタフ・ホーンローエの共謀説がある。これに関してはまずまちがいのないところで、話は1859年にさかのぼる。カロリーヌとニコラス公の娘マリーは
コンスタンティン・ホーンローエ侯爵と結婚しているが、彼はグスタフの実弟である。
ややこしい相続にまつわる謀略

なにが問題なのかというと、マリーが相続することになっていたカロリーヌの莫大な遺産である。

→ もしも、カロリーヌのロシアでの結婚がなかったことになると、マリーは私生児になってしまう。

→ さらにカロリーヌがリストの子供を生めば、マリーの相続権は消滅してしまう。

→ それによってホーンローエ家が失うことになる財産は数百万ルーブルを越える。

結果としてホーンローエは財産を失うことを恐れた。


さらに!


コンスタンティンとグスタフには
兄クロートヴィヒがいて、彼はニコラス公の兄の娘と1847年に結婚していて、ニコラス公のヴィトゲンシュタイン家と、グスタフのホーンローエ家はすでにつながりがあった。よって両家がマリーの遺産を狙って示し合わせた可能性がある。

でもグスタフってリストのパトロンなはずなんだけど・・・・


あー、ややこしい


1864年にニコラス公が亡くなったために、リストとカロリーヌの結婚に関して、法律上の問題はなくなった。しかし、その後も生涯にわたりふたりが結婚という形で結ばれることはなかったのである。
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