リストの生涯
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リストの生涯
1811年(0歳)
リストの両親
リストの父アーダムと、母マリア・アンナの肖像

1811年10月22日、ハンガリーのライディングに生まれた。彼の幼年期についてはあまり知られていないが、幼い頃から父について音楽を学び始めている。同時に鍵盤をいじって即効演奏を始める。

1820年(8歳)
早くから天才として才能を見せ始め、9歳の頃には聴衆の前で即効演奏をやってのけている。彼の教師にはあのサリエリもいた。

1822年(10歳)
一家三人ウィーンに移住。ベートーベンの弟子でもあるカール・チェルニーに1年半ピアノの教えを受ける。

チェルニーは後に「彼のように才能に恵まれて、しかも勤勉で進みの速い弟子はもったことがない」と賞賛している。

1823年(11歳)

1923年4月、王宮内レドゥンザールで演奏。演奏会にはベートーベンも聴きに来ていたという。そして演奏終了後の壇上に上がり、リストに熱狂的な抱擁をして彼の技量を褒め称えた。これは当時の新聞に書かれていたことだが、事実を裏付ける証拠は残っていない。会話帳にアントン・シントラーがリスト少年の演奏会に出席するよう勧めているので、実際に二人が出会った可能性は高い。ただしこの記事に関してだけなら、宣伝効果を狙った誇張記事をリストが黙認していた可能性の方が高いといえるかもしれない。

ベートーベンの接吻
伝説となったベートーベンのキス(リトグラフ)


5月1日、ハンガリーの首都ブダペストに乗り込んでデビュー演奏。その反応はものすごく、続けざまにさらに3回も演奏回が追加されて毎回満員の盛況だった。

当時文化の中心だったパリでさらに磨きをかけようとウィーンを出発。12月にパリ到着。
これによってリストは一躍パリ音楽界と社交界の話題の人物となり、貴族たちのサロンの寵児となった。

1824年(12歳)
7月、イタリア・オペラ劇場で正式にパリのデビュー演奏回を開くことになる。演奏会では「ヨーロッパ一流の驚くべき才能」「モーツァルトの魅力と精神が乗り移ったような演奏」などと最高の賛辞を得た。
リストの肖像
1828年(16歳)
リストが教えていた弟子の一人、カロリーヌ・サン=クリック伯爵令嬢と恋愛。しかしフランスの内務大臣だった彼女の父親によって、ふたりの仲は引き裂かれてしまう。リストはこの失恋でとてもショックを受け、しばらくはステージに立つこともしなかった。
1830年(18歳)
ベルリオーズの≪幻想交響曲≫を初めて聴いて感銘を受ける。リストは彼と親交を深め、ベルリオーズの革命的なオーケストラ曲の、ピアノ用編曲を行なう。
1832年(20歳)
2月、ショパンのパリ・デビュー演奏会を聴きにいく。「ピアノ協奏曲へ短調」などが演奏され、新聞批評などでも絶賛された。リストも深い感銘を受け、それから彼と親しく交わるようになる。
1833年(21歳)
ベルリオーズの紹介で、マリー・ダグー伯爵夫人と初めて会う。彼女はすぐれたピアニストでもあり、リストより6歳年上だった。リストは彼女にすっかり魅せられてしまう。ふたりの関係は世間に知られ、評判となってしまう。
1835年(23歳)
マリー伯爵夫人との不倫。マリーは夫と家庭を捨て、リストはジュネーブで彼女と同棲する。

新しくジュネーブに設立された音楽学校の教師となる。平行して作曲活動も行い、≪旅行者のアルバム≫などを書いた。

12月に長女のブランディーヌが誕生。

1836年(24歳)
リストの肖像
春にリヨンとパリで演奏会を開催。秋、ジョルジュ・サンド夫妻来訪。12月にサンド夫妻とリスト夫妻はパリへ赴き、リストはそこで演奏会を開いた。
1837年(25歳)
マリーとイタリアへ旅行。冬に次女、コジマが誕生。
1838年(26歳)
2月にマリーとミラノ、ベネツィアへ旅行。そこでリストはブダペストが洪水に襲われたことを知り、祖国救剤のための義捐演奏会をウィーンで開く。これは空前の成功を収めた。
1839年(27歳)
2月から6月までマリーとローマに住む。5月に長男ダニエル誕生。マリーと不仲になり、彼女と子供をパリに返し、リストはウィーン、ブレスブルク、ブダペストで演奏会を開催。大成功を収める。
1840年(28歳)
1月に指揮者としてデビュー。その後、ヨーロッパ各地で演奏旅行。

マリーと別居して身軽になり、ピアノの巨匠としての黄金時代をスタートさせる。
1841年(29歳)
パリの各地で演奏会を開催したさい、ワーグナーと出会う。

夏の間だけ、マリーと3人の子供たちとライン河の小島で過ごす。これは43年まで続いた、マリーと過ごした最後の時期となる。
リストのカリカチュア
1842年(30歳)
1月から2月にかけて、ベルリンで21回の演奏会を開いたほかに官廷などで私的な演奏会を行なう。通常の会場では狭くて客が入りきれないため、オペラの劇場を使うなど、ピアニストとして圧倒的な名声を手に入れる。

ペテルブルク滞在中にハンブルクで大火があったことを聞き、リストは慈善公演を行なって、その利益5万5,000フランをハンブルクに送った。
1846年(34歳)
マリー・ダグー
マリー・ダグーの肖像
フランス各地、フランクフルト、ワイマール、ウィーンへ演奏旅行。

マリー・ダグーと決定的に破局。マリーはリストの愛人のような立場におかれることをに絶えられないと考えていていた。リストの女性関係ははなはだしく多く、しかも美貌と名声を兼ね備えた女性ばかりだった。

数年前にマリーが執筆した≪ネリダ≫が出版される。作中の人物がリストとマリーを元にしていると思わせるところがあり、これでふたりの関係は修復不可能なものとなった。
1847年(35歳)
カロリーネと娘のマリ
カロリーネと娘のマリー
2月にカロリーネ・イワノフスカと出会う。彼女は夫であるロシアの侯爵と別居中だった。リストは彼女に夢中になる。後にカロリーネは夫と離婚してリストと結婚することを決心するが、法律上、宗教上の問題が絡んで実行に移せないまま時が過ぎていく。

9月にエリザベートグラードで演奏会を行い、ピアノの巨匠としての演奏家時代に終止符を打つ。
1848年(36歳)
2月初めにワイマール到着、官邸楽長として指揮をとる。約10年にわたるリストの官邸楽長時代の始まり。

4月から友人リヒノフスキーの城に入る。
1849年(37歳)
ワイマールでワーグナーの「タンホイザー」を初演。
1853年(41歳)
6月に20歳のブラームスがリストを訪問。
指揮するリスト
1854年(42歳)
オーケストラとともに仕事を続ける。

≪ファウスト交響曲≫を完成。この頃がリストの創作活動の絶頂期。
1857年(45歳)
娘のコジマと弟子のハンス・フォン・ビューローが結婚。
1858年(46歳)
官邸音楽監督を辞任。
1860年(48歳)
カロリ ーネがリストと結婚するにあたってロシア側の障害が解決。後は宗教的な問題だけとなり、カロリーネはそれを解決するためにローマへ向かう。

カロリーネはローマ法王に審査を依頼し、彼女の訴えが認められる。リストは歓喜して、彼女と結婚の準備を進める。

9月にワイマールへ戻ったリストは遺書を作成する。そこには財産をカロリーネに寄贈する旨が書かれていた。
1861年(49歳)
12月20日、リストはカロリーネと結婚式を挙げるためにローマへ赴く。到着してすぐにカロリーヌと合流。22日のリスト50歳の誕生日に結婚式を挙げるつもりでいたが、リストに敵意を持っていたロシア側の親戚が抗議をとなえ、結婚は白紙に戻されてしまう。
1862年(50歳)
ローマで宗教音楽、オラトリオの創作を中心とした生活に入る。
1865年(53歳)
4月からヴァチカンに引越し、聖職者となることを決意。グスタフ・ホーロエン個人の礼拝堂で、剃髪式を受ける。

神学などの修養を行い、7月にリストは聖職者となった。
1868年(58歳)
コジマが夫ハンスを捨ててワーグナーと不倫。怒ったリストとワーグナーは絶交状態となる。
1869年(57歳)
定期的に各地を巡り始めるようになる。

4月のブダペストでの演奏は超満員のホールで大成功だった。

「専修課程」というものを作り出し、リストの元で学んでいた若者たちは、彼の音楽生活全てを共有することになる。

以降、リストは毎年数ヶ月間にわたって後進の指導にあたるようになり、1日に少なくとも3時間は彼らのために時間を空けておくようにしていた。それを知った若い音楽家たちが、世界中から押し寄せてくるようになる。
1871年(61歳)
祖国ハンガリーの総理大臣アングラシーの要請で、リストは王の顧問となり、年間4,000グルデンを支給されるようになる。

その後、ブダペストの校長に就任。ブダペスト、ローマ、ワイマールを忙しく行き来する生活が始まる。

ワーグナーがバイロイト祝祭劇場の礎石を添えるさいにリストを招待。リストはそれを断ったが、9月にふたりはワイマールで落ち合うなど、絶交状態だた関係は修復される。
1876年(66歳)
バイロイト祝祭劇場の落成式出席するため、バイロイトへ赴く。その公式晩餐会の席上スピーチで、ワーグナーはリストに情のこもった言葉を送って
いる。
リストの肖像
1885年(73歳)
相変わらずヨーロッパ各地を回る、忙しい日々が続く。

ブダペストで1月から4月までピアノ教室を開設。

4月待つからローマでふたたびピアノ教室を開設。
リストの肖像
1886年(74歳)
リストの生誕75年を祝う行事がヨーロッパ各地で開かれる。栄光に包まれながらリストはロンドン、パリ、ローマなどを回る。

6月はじめに発熱をしていながらルクセンブルクでは演奏会も行い、21日にバイロイトに到着。熱が下がらず病状悪化。

それでもリストはバイロイト音楽祭に赴き、幕間には聴衆に対し挨拶も行っている。

その後容態悪化。27日には幻聴をみるようになり29日に錯乱状態となってもがき苦しむ。

そして7月31日23時30分、リストは息を引き取った。享年74歳。
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