リスト狂 リストの生涯 謎多き天才少年 ロマン主義アーティストとの出会い
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挫折・カロリーヌとの結婚問題 宗教と教会音楽 晩年の活動 リストの最晩年・死ぬまでの6年間
リストの最晩年・・・・死ぬまでの6年間 (1880-1886年)
リストの最晩年

70歳近くになるとリストの体力に明らかな翳りが見えてくる。にもかかわらず60代の頃と同様に、作曲その他の諸事とそのための移動に忙殺される日々が続いた。彼が若い頃から持ち続けていた「天才は社会に役立たねばならない」という信条のため、彼を必要とする人々(中には利用しようとする連中もいたはずだ)の要求を拒むことができなかったのである。

リストの最後はほとんど栄光に満ちたものであった。演奏会は大成功、ヨーロッパ各地を回る凱旋パレードはどこも歓呼を持って迎えられている。しかしハードなスケジュールの旅行、たくさんの表彰式、それにからんだ社交上の義務は70を過ぎた老人の身体によいものではなく、それが彼の寿命を早める要因のひとつとなったことは間違いないだろう。

最後の6年間

1881年、69歳のリストは4月にブダペストからベルリン、5月にカールスーエ、アントワープ、6月にはマグデブルグで大歓迎を受け、その月の半ばにはワイマールに着いた。そして7月2日、ヴァイマルの家で会談から落ちて大怪我をする。このときの怪我の後遺症は大きく、亡くなるまで完治しなかったといわれる。

それでも9月にはバイロイトにでかけ、10月にはローマに向かった。そのローマでリストは左目の白内障、慢性の心臓病、水腫、喘息、不眠症などと診断された。左目に関しては86年6月に除去手術の話が出るほどに悪化しており、右目もほとんど見えないくらいに悪くなっていた。

また心臓病のために水腫を引き起こしたと考えられ、体が晴れ上がっていた。さらに最晩年にはアルコールの量もそうとうに増えていた。もともとリストは若い頃から酒とタバコの習慣があったが、この頃には
毎日コニャックを1〜2本とワインを2〜3本!飲んでいたらしい。それにかなりアブサンという質の悪いアルコールも常用していて、これは失明や中風などを引き起こしたといわれ、フランスでは後に禁止令が出たほどのものである。

1881年には更に「ハンガリーにおけるロマと彼らの音楽」の改訂版が出版されたが、そこに反ユダヤ主義的内容が書かれていたため、各地でリストに対する批判が強まった。リストは反ユダヤ主義者とみなされ、襲撃の予告文まで公表される始末だった。この著者名はもちろんリストだが、実際に書いたのは誰か、そしてリストはそれを承認したのかについては諸説あり、本当のところは分かっていない。

1882年の夏にはバイロイトに出かけ、この年初演された「パルジファル」を、少なくとも4回は見ている。その後、ワーグナーに招かれて年末年始をヴェネチアで過ごした。

孫たちに囲まれたリストは本当に幸せそうだった。

リストがヴェネチアを去ってから1ヶ月後の1883年2月、ワーグナーが死去。5月に行われた追悼コンサートでは、リストは「パルジファル」の一部を指揮した。それ以降も、様々な演奏会に出席している。1884年4月のワイマールで、リストは自身の「栄えよポーランド」とビューローの交響詩「ニルヴァーナ」を演奏したが、これが彼の最後の指揮となった。
栄光に包まれて

1886年はいつもより多忙な年となった。

リスト生誕75年

を記念する催しが各地で行われ、リストはパリ、ロンドンなど遠方へ出かけ、拍手喝采に包まれた。ロンドンは実に45年ぶりの訪問で、1840年から41年にかけての演奏旅行では冷遇されたが、今回は大歓迎となった。4月6日にリストは王立アカデミーに1,100ポンドを寄付、自ら演奏も行う。ウィンザー城では女王の前で演奏、その翌日にはグローブナー・ギャラリーで大歓迎会が催される。

弟子のデビュー・コンサートなどにも出席した後28日にパリに戻り、リストが描れた肖像画を公開する席がもうけられ、多くの音楽家が集まってリストの曲を演奏し彼を称えた。

まさに栄光の頂点での多忙な生活。しかしリストの体調は確実に悪くなっていった。6月にはルクセンブルクに二週間滞在。そこの音楽協会に頼まれ急遽、演奏会で弾くことなった。

1:愛の夢「第1番」(リスト)
2:ショパンのポーランド歌曲(リスト編)
3:ウィーンの夜会「第6番」(リスト)

だった。これがリストの生涯最後の演奏となった。
最後の10日間

6月21日にバイロイト到着。音楽祭で忙しい娘コジマのバンフリート荘ではなく、ジークフリート通りにあるフレーリヒ夫人の家に宿を取った。彼のあまりの体調の悪さに周囲は驚いたが、それでも23日に「パルジファル」を観に出かけている。翌24日にはベッドの上で大好きなカードゲームを弟子たちと楽しんだが、リストは

「誰がそこにいるのかも分からないほどで、身体を起こすのもままならなかった」

にもかかわらず25日にリストを診断した地元の医師はかなり楽観的な診断を行ない、リストは無理をして「トリスタンとイゾルデ」のバイロイト初演を観劇に出かけた。幕間には観客に挨拶をしたが、これが公衆の前に姿を見せた最後となった。

翌日には容態が悪化!ベッドから起き上がれなくなったものの、
娘コジマはレセプションで忙しく、父親の状態が深刻なことに気付くのが遅れてしまう。

27日には幻覚をみるようになり、コジマが呼んだ医師の翌日の診察でリストは肺炎と診断された。コジマは弟子を退け、リストがこの状態になっても飲んでいたワインやコニャックも取り上げた(当たり前)。しかし、
コジマはバンフリート荘でのレセプションを続けるのはやめなかった

29日にリストは苦しみのあまり精神錯乱状態となったが、
コジマは劇場に出かけている。30日にいったん意識を取り戻したものの、深夜2時に「息が出来ない!」と訴えて昏睡状態に陥った。コジマはこの最後の晩もレセプションで忙しかった

リストが亡くなったのは7月31日午後11時30分。肺炎のため

と診断されている。しかし慢性的な心臓病から生じた肺水腫の可能性や、心臓の悪化のためという説もある。



リストの死体写真

リストの葬儀

葬儀は8月8日に執り行われた。リスト生前、簡素で安上がりな葬儀を希望していた。

「自分の葬儀には友人、知人を招くことの反対だ。音楽、行列、照明、そして追悼演説もなしにしてもらいたい。亡骸は教会ではなく、どこでもいいから共同墓地に埋めてもらいたい。レクイエムを歌うことも含めて、私はどんな宗教儀式も望んではいない。」

しかし実際の葬儀には家族や弟子の他に、多くの人々が葬儀に参加した。コジマは弟子たちが葬儀に参加することを拒否したのだが、フリートハイムらの抗議にあって結局はそれを許した。教会ではレクイエムが執り行われ、ブルックナーは「パルジファル」の主題に基づいて即効演奏を行なった。

リストの埋葬地についてもひと悶着あったが、コジマは自分の住んでいる地に眠って欲しかったのだろうか、数年にわたる議論の末、結局はバイロイトのままとなった。その翌年、墓石を覆う立派な零俵がコジマの要請で建てられた。これは第二次世界大戦で破壊されたが、1978年に再建されている。
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