マーラーの手紙
作曲家への助言

曲目解説について

言葉と音楽

第3交響曲

第2交響曲

表題音楽

ブラームスとブルックナー

リヒャルト・シュトラウス

劇場のための作曲
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マーラーの手紙

ベートーベンやハイドンは、音楽について多くを書き残さなかったし、内容も日常的な話に終始している。しかしマーラーの書簡には、彼の考えや音楽上の信念が詳しく述べられていて、彼の思想がありありと伝わってくる。
また、いかに指揮者の職で経済的な安定を得て、より作曲に没頭できる時間をつくろうとしていたかも、書簡にしっかりと残されている。

作曲家への助言

マックス・マルシャルク宛(1894年4月)


あなたは極彩色の音を志向しているようですね。最近活躍している、才能豊かな未熟者たちの誤りはまさにここなのです。それは、私が歩んできた経験からいえることです。

私を信じなさい。とりあえずは年配の人間が語ることなのですから。主題は明確に、そして柔軟に提示すべきです。形を変えて展開されても見分けがつくように。そのほうが変化にとんだ作品となり、心を奪えるような作品となるでしょう。

あなたの作品はまだ輪郭がぼやけています。さらにいえば、あなたはピアニスト的な考えから脱却すべきですね。あなたの作曲方法はオーケストラのためというよりは、ピアニスト向けであり、それをオーケストラに移しただけのようです。

私もかつては同じ理由で悩んでいました。なぜなら昔の作曲家はみなヴァイオリンや声楽から出発したのに、我々昨今の作曲家はピアノから出発しているのですから。

あなたは同じリズムやハーモニーを持続させることが多いですね。それでは単調になってしまいます。変化させなくては!それこそが効果を生み出すのであり、そうすべきことなのです。

曲目解説について

オットー・レースマン宛(1894年5月)


親切なご提案感謝します。しかし演奏のさい、聴衆に注釈を伝えるのを私は好みません。聴衆に「曲目解説」なるものを渡すのは、聴かないで見ることを強いるのと同じだからです。

確かに動機の意味を聴衆に分からせることは必要です。しかし作品を聴くときにいくつかの主題を取り出すだけで、それが可能だなどと本当にお思いですか。音楽を知覚し、認識するにはそのためには学習が必要なのです。そして作品が深くなればなるほど、学習は困難になり時間も必要です。

しかし初演に際しては、そこで人が喜びを得るか不興を感じるかが肝心であり、作品から生じたものに人が魅了されたならば、人はその作品と徹底して関わっていくでしょう。もしも作品よりさらに奥深い、作曲者自身と面識を得たならば、そのときはどうすべきでしょう?曲目解説など必要ありません。より作曲家について学び、観察することが大切なのです。

もちろん作曲家は変化するのに対して、作品は一度完成してしまえば変わることはありません。しかし、このような比較はいつもどか的を得ないものなのです。

言葉と音楽

マックス・マルシャルク宛(1896年3月)


言葉で言えるような体験である限り、それを音楽に置き換えることは出来ないと考えます。自分自身を音楽(交響曲)によって表現したい欲求は、他の世界へと通じる入り口において発生するのです。そこではもはや時間や場所は区別されません。

表題に即した音楽を作ることは退屈ですが、同じくらい音楽に表題を与えるのは意味のないことだと思います。とはいえ、音楽に形を与えるのは作者の体験、言葉を付け加えられるまでに具体的な事実であることは確かです。

間違いなく言えるのは、我々が1つの岐路に立っていることでしょう。交響曲と歌劇とがはいつまでも分かれているわけにいかないであろうこと、それは音楽を理解しているものにとってはっきりしています。ベートーベンの音楽とワーグナーのそれでは本質的な相違が認識されます。実際、ワーグナーは交響楽という表現を彼独自に展開しましたし、交響曲の作家たちもワーグナーによって得られた表現の可能性を、独自のものとして拡大していきました。このようにすべての芸術は結び合うものなのですが、まだ十分な展開が得られているとはいえません。

私も完全には理解していませんし、それに従って創作が出来ているともいい切れません。いろいろ問題があるにせよ、私の作品に馴染みがなく、初めて聴くような聴衆には、聞き手の道しるべとなるべき解説を与えることは仕方ないのでしょう。たとえるなら夜空に輝くいくつもの星を理解するための星座表みたいなものです。しかしそれ以上のものではありませんね。

いずれにせよ私はあなたに感謝します。あれは今まで私の作品について書かれたものの中で、もっともまともなものでしたから。

第3交響曲

アルトゥール・ザイドル宛(1896年6月)


僕が今、大きな作品にとりかかっているのは知っているよね。キミに想像がつくかな?僕がどれだけこの仕事に没頭していて、それこそ死にそうなまでになっているかなんて。
これは世界を描き出すような巨大な作品なんだ。人は宇宙が奏でる道具のひとつでしかない。キミが僕を理解したいのなら、こその事実を受け入れて全てを学ばなくちゃならない。

僕はもはや僕ではないみたいさ。作品を創造するものに必ずつきまとう生みの苦しみを味わっているよ。その苦しみが僕を形作り、成熟させるためには死にそうになるのは必然的なことなんだろう。きっと僕の交響曲は世界中の誰も耳にしたことがないようなものになるはずさ。

そこではまるで夢の中にいるように全ての自然が語りだし、奥深い神秘があらわになるだろう。まだ気にかかってるところはいくつかあるし、うまくいっていないようにも思えるんだ。全て思い描いている通りに完成できれば良いのだけれど。

第2交響曲

アルトゥール・ザイドル宛(1897年2月)


ご親切で思慮深いお手紙をいただき、大きな励みとなりました。あなたが私のことを解説してくださるというのは、なんとも奇妙なものです。

あなたは私の目的をシュトラウスのそれとは違うものとしてとらえました。私の音楽は理念を解明するために表題にたどり着くのに対し、シュトラウスの音楽における表題は目指すべき課題であるというあなたの意見は正しいものです。

あなたはこれによって、我々の時代の大きな謎に触れ、どちらを選ぶべきか指摘したわけです。大掛かりな音楽を創作しようとするとき、私はどうしても「言葉」を取り入れたい気持ちにかられます。ベートーベンが「第9交響曲」を作曲したときもそうだったのでしょう。しかし彼の時代には、作品に適した素材がまだそれほどありませんでした。シラーの詩では、ベートーベンが心に抱いていたものを表現するには間違いなく力不足です。

私の「第2交響曲」でも、同じような問題が起きました。聖書をはじめ世界中の文学をくまなく探したのですが、結局自分の心にあるものは自分の言葉で表現するしかなかったのです。

私はずっと終楽章に合唱を持ってくるということを考えていました。しかしそれがベートーベンの模倣と思われるのが不安で、ずっと躊躇していたのです。そうこうしているうちにビューローがなくなり、私は告別式にのぞみました。その雰囲気は私が悩んでいた作品の精神と一致するものでした。そこにクロプシュトックの≪復活≫のコラールが聞こえてきたのです。まるで稲妻に撃たれたようでした。私の中で全てが鮮明になったのです。
これこそ聖なる受胎とも言えるでしょう。

このとき体験したことを私は音にしていきました。それはすでに私の中に宿っていたものかもしれません。同じ瞬間に何千もの人が協会にいながら、私だけが体感できたのですから。私にとって重要なのは、体感するときに作曲するということなのです。

音楽家が秘めているものを言葉に表すことは出来ません。普通の人と違っているのは確かですが、それが何なのかは答えられないのです。音楽家はさすらい人のようにさまよっています。どの道をたどってよいのか分からなくとも、常に光を追っているのです。それが太陽のように輝く天体であれ、人を惑わす鬼火であれ。

表題音楽

マッカス・カルベック宛(1900年11月)


ベートーベン以来、何らかの内的な表題を持たない音楽はありません。けれども、なにが表現されているのかを前もって聞き手に伝えておかなくてはならないような音楽は、聞く価値などありません。

あえて言うなら「表題など滅びてしまえ!」といったところです。人は耳と心を持っているのですから。

ブラームスとブルックナー

アルマ・マーラー宛(1904年6月)


ブラームスの全ての作品を念入りに検討してみたよ。やっぱり彼は器の小さい存在だった。同じ時代のワーグナーに吹き飛ばされて当然だろう。わずかな財産しか持っていなかったブラームスは、生活するためだけで精一杯だったんじゃないかな

彼を侮辱したってしかたがないけれど、あえて言うなら彼が行き詰まるのは決まって展開においてなんだ。主題はそれなりに美しいのに、それをどう扱ったらいいかが分からなかったのさ。もっともそれが出来たのはベートーベンとワーグナーくらいかもしれないけれど。

ブラームスの後、僕はブルックナーにさかのぼって検討してみた。あきれるくらいに平凡な人だね。たぶん人生においての試練というのを、彼は経験してこなかったんだろう。彼らに比べてベートーベンやワーグナーは最高だ。

リヒャルト・シュトラウス

アルマ・マーラー宛(1906年8月)


シュトラウスと一緒にいるんだ。彼は僕と2人っきりのときはとてもいい奴だよ。だけど彼の人柄にはどうも馴染めない。彼の感性や考え方は、僕とはずいぶんかけ離れているんだ。それこそ同じ星に生まれついたのが不思議なくらいさ。

劇場のための作曲

グィード・アードラー宛(1910年1月)

劇場用の作曲は、コンサート・ホール用の作曲とはまったく別のものだよ。僕は確信しているんだが、僕の今までの作品で器楽の使い方が不十分だったのは、僕がコンサート・ホールとはまったく違う、劇場用の音楽に慣らされてしまったからなのさ。


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