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ヒトラーとマーラー

「私はオーストリアではボヘミア人として、ドイツではオーストリア人として、
そして世界中からはユダヤ人として、あらゆる意味で歓迎されない人間だ」
そうマーラーは語った。


1860年に貧しいユダヤ人の御者の家に生まれ、つねにユダヤ人であることに苦痛を感じていたマー。
1889年生まれで12歳のときに「ローエングリン」を聞いて依頼、熱狂的ワーグナー・ファンとなったヒトラー。



マーラーが官邸劇場の音楽監督として勤めている頃、
ヒトラーは音楽愛好家の青年として、
2人は同じ時期にウィーンの街で暮らしていた。
1912年ヒトラーが描いたウィーンの教会。
1902年アルマとマーラーはここで結婚式をあげた。


ワーグナー思想の根幹にはゲルマン民族こそもっとも優れた民族であり、世界の主人となるべきだという考え方がある。
ワーグナーが反ユダヤ論者と知りながら、彼のオペラを指揮するマーラーは熱狂的ワーグナー信者だった。


1907年、ヒトラーはウィーンの美術大学受験に失敗する。芸術への挫折の後、彼は貧民宿舎を転々としながら彼は放浪生活を送っていた。
同じ時期、マーラーは10年間のオペラ監督生活に終止符をうとうとしていた。


1911年5月、マーラーは50歳10ヶ月の生涯を閉じる。
そして彼の作品は「ユダヤ人の音楽」として、多くの悲劇をこうむることになるのだた。


1918年にドイツは第1次世界大戦で連合国に無条件降伏。
芸術家として挫折した後、この戦争に従軍していたヒトラーは、またしても苦い思いをさせれる。
やがて彼は政治の世界へと進出していく。


死の直後からマーラーの音楽は、ヨーロッパ各地で華々しく行われていた。
1921年にはドイツで初めての「マーラー祭」が開催される。
1931年の「マーラー没後20周年記念祭」では、アルマの要望によりウィーン国立歌劇場内に、ロダン作のマーラー像が設置された。



1933年、ヒトラー内閣が成立する。

「国家社会主義の思想を把握したいと思うものは、まずワーナーを知らなくてはならない」
音楽にも強い関心を持っていたヒトラーはそう語った。

ヒトラー、ゲーリング、ゲッペルスの前で
指揮台に立つフェルトベングラー


やがてヒトラー政権の中で、ユダヤの音楽に対する虐待が始まる。
ユダヤ人指揮者のブルーノ・ワルターは様々な妨害に立ち向かったが、最後はヨーロッパを離れることになる。


ドイツでのユダヤ系音楽が完全に禁止となり、マーラーの音楽が演奏されなくなったため、アルマ・マーラーの収入は激減する。
アルマ自身はユダヤ人ではなかったが、ヒトラーの魔の手から逃れるため、彼女もまたドイツを去る。


マーラーを好んで演奏していたフェルトベングラーは、ナチの政策に反対の意を唱え続けたが、「自分たちの運命は狂人たちに握られている」という電話をゲシュタポに盗聴され、以降ナチの監視下に置かれることになる。



それと対照的にヘルベルト・フォン・カラヤンは、ナチスに入党することで党から協力なバックアップを得て、ドイツ国内でめきめきと頭角を現すのだった。
ナチス党員のカラヤンは、ヒトラー政権と一体になって活動を繰り広げる。
1938年にベルリン・フィルと初競演、翌年のヒトラー誕生記念パーティーの日には、ヒトラーから国家指揮者に任命された。

ヘルベルト・フォン・カラヤン


ヒトラーのウィーン侵攻と同時に逃げ出したアルマの家に残された、マーラーの自筆譜の多くが灰となった。マーラー記念館を作るために集められた多額の資金も、すべてヒトラーによって没収され消滅した。



「私に10年の歳月を与えよ。諸君は一変したドイツを見るであろう」
ヒトラーの言葉通り、ドイツの街は一変した。
繁栄ではなくソ連と連合軍の攻撃によって、ボロボロの廃墟と化したのだった。
1945年5月、ヒトラーは自殺しドイツは無条件降伏する。

廃墟と化したベルリン


ナチス政権下のドイツでは1933年からの11年間、オーストリアでは1938年からの7年間、チェコとポーランドでは6年間、オランダ、フランス、北欧諸国では約5年間の間、マーラーの音楽はまったく演奏を許されなかった。しかし第三帝国の崩壊とともにマーラーの音楽は解放され、復権が与えられたのだった。


1960年には「マーラー生誕100年祭」が世界各地で開催され、マーラーの音楽は爆発的なブームを迎える。
ベルリンの「マーラー祭」で「大地の歌」を指揮するなど、中心となって活動したのは、かつてヒトラーに忠誠を誓い、マーラーの音楽を拒否したカラヤンだった。



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