マーラーと当時の革新的な音楽家たち
1962年3月のラジオ対談より
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マーラーは晩年、当時の革新的な音楽家たちを、強烈に援護していましたね。
アルマ
当時のなにが革新的だったのでしょう?シュトラウスの≪サロメ≫はそうだったかもしれません。でも他の人たちはどうだったのですか?シュトラウスは革新的な音楽の代表といわれていましたが、聴衆からの受けが良くなかったため、彼らのご機嫌をとる方向へと傾いていきました。

マーラーは生きている間、同時代の作曲家を擁護しました。革新を貫くことはとても困難でしたが、それでもお金になるかどうかとは別に芸術的な音楽を創造する人たちはいましたし、例えば理想主義者のプゾーニに対して、マーラーはとても好意を抱いていました。

マーラーが病に倒れたとき、プゾーニも私たちと一緒にヨーロッパへ戻りました。彼はたえずマーラーに付き添い、本を読んだりピアノを弾いたりしました。彼はマーラの最後を明るく照らすために、運命的が使わした使者のようでした。
もちろんマーラーは、プゾーニの作品だけを取り上げたのではありません。売れる前のラヴェルを発見したのも彼ですし、アルバン・ベルクに大きな可能性が秘められているのを発見したのも彼でした。


1909年のマーラー

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シェーン・ベルクは世話のやける弟子でしたね。
アルマ
それでも彼はマーラーの愛弟子でした。彼は自分の余命がそれほど長くないと分かったとき、「自分が死んだらシェーンベルクの面倒をみるものがいなくなってしまう」と、いっていって彼のことをとても心配していましから、私たちはこれをマーラーの遺言だと思い、経済的に厳しいシェーンベルクを助けるために出来るだけのことをしました。
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マーラーはシェーンベルクに比べて、シュトラウスをなぜ拒否したのでしょうか?
アルマ マーラーはシュトラウスのあまり芸術家らしくない生き方、ごますりや節操のない態度を好ましく思っていませんでした。二人は良く出会う機会がありましたが、ほとんど会話もありませんでした。

シュトラウスには自分をボスとしてみてもらいたがる傾向が強く、同輩の成功や出世はねたみ、妻の尻には敷かれ、抜け目ない商人根性丸出しで、それら全てがマーラーには我慢ならなかったのです。

もちろんマーラーが駆け出しの頃、彼の作品を評価してくれたことには感謝していました。しかし、交響曲作曲家として自分が追い越されたと気付いたとき、シュトラウスは本性を露わにしたのです。「マーラーの評価が上がるたびに、シュトラウスの名声は下がる」といったのはブルーノ・ワルターですが、まったくその通りでした。
━━━ シュトラウスに対しては、ある意味偏見を抱いていたのでしょうか?
アルマ 彼は≪サロメ≫や≪エレクトラ≫を高く評価していました。でも≪バラの騎士≫には批判的でしたね。指揮者としてのシュトラウスもそれ程評価していませんでしたが、作曲家としては関心を持っていたようです。

よく見過ごされていることですが、マーラーはフランツ・リストの才能を高く評価していました。作曲家としての自分はこの巨匠の後継者だといっていましたね。リストの時代は、自分の時代とともにはじまると信じていたようです。

マーラーの後期の作品は聴衆に神秘的に聴こえたかもしれませんが、当時の現代主義への傾向を持っています。どんな芸術家でも、自分の理念を認識する努力は怠らないでしょう。しかしマーラーは違いました。彼は困難に挑戦しましたし、そうするとどうしても認識しえないものが残ります。だからこそ、彼の初期の作品には作品分析の鍵となるプログラムが添えられたのです。後期の作品にはこのプログラムはありません。ですから当時の人々は、作品をどう受け止めたらよいか戸惑いました。

その鍵は今日でも見つかっておらず、もしかしたらそんなものは存在しないために、鍵をあけることは出来ないでします。でも内容を理解する必要など本当はなくて、感じ取るだけで良いのです。それが分かればマーラーの作品はずっと身近なものになってきます。

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