マーラー、アメリカへ行く
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1962年3月のラジオ対談より
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マーラーとあなたは1907年にアメリカへ渡りましたね。 |
アルマ
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アメリカにはほんの数ヶ月しかいませんでしたけど。それでもヨーロッパとの断絶を意味していました。ウィーン官邸劇場との決別…様々なもめごとがありましたから。今風にいうならストレスの積み重ねでした。マーラーはストレスの犠牲になったともいえます。結果として、マーラーと私は新世界へ旅立ちました。このときから生きる努力が始まったように思います。
しかしマーラーはアメリカの風土に馴れるには年をとりすぎていました。これまでの生き方を変えなければならなかったのですが、それはとても辛いもので彼は病気になってしまいました。創造的な仕事をする力は残っていたのですが、最後はそれも尽きてしまったようでした。
目に見える世界は彼にとってなんの意味もなくなり、反対に内面の世界が彼の心を占めてしまったのです。感覚はこれまでになく鋭敏になり、私は彼の後について歩くのがしだいに困難になってしまったほどです。 |
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マーラーはウィーン官邸歌劇場監督を引退するときに、1万4000クローネの年金を受け取りました。それだけあれば、二人で暮らすには十分だったはずなのに、わざわざアメリカへ行くという冒険をおかし、ヨーロッパに戻ったときのための館も購入しました。マーラーは作曲家として暮らすだけでは満足出来なかったのですか? |
アルマ
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神は世界を創造しましたが、それだけでは満足出来ませんでした。マーラーは内面に恐ろしい緊張を抱えていたので、外の世界にバランスとなるものを必要としたのです。内面で創作を行い、外面で実践を。そうしなければならなかったのです。
彼は演奏活動を呪っていました。しかし、彼はモーターと同じで動いていないと錆付いてしまうよため、それなくしてはいられませんでした。彼は自分の健康状態を把握していて、将来の家族のためのお金を確保しておこうとしたのです。アメリカならそれが十分でしたから。 |
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新大陸でのマーラーはどうでしたか? |
アルマ |
精一杯、元気にみせていました。それに穏やかでいようと勤めていたようで、これまでなら容赦なく怒鳴りつけたような演奏のミスも許していましたね。でも、メトロポリタンの演出にはあきれ果てていて、そのためロラーをウィーンから呼ぼうと計画したのですが、いろいろあって流れてしまいました。彼は1908年にはじめてメトロポリタンの指揮台にたって≪トリスタンとイゾルデ≫を演奏し、ついで≪フィデリオ≫≪ドン・ジョバンニ≫≪ジークフリート≫など次々と指揮したのです。
しかし彼はオペラ地獄にうんざりしていて、劇場のスター・システムにも嫌気がさしていました。やがてイタリア勢が幅を利かせるようになって、トスカニーニが契約されました。それで、彼はもう2シーズンだけ指揮をして、メトロポリタンのオペラとは縁を切ったのです。
1909年のアルマとマーラー
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トスカニーニは一流の指揮者ですが? |
アルマ |
好みの違いということもあります。私はトスカニーニに否定的な評価を下すつもりはありません。ただ、彼はマーラーと私には向いていませんでした。予断ですが、彼のワーグナーは耐え難いものでしたね。彼はマーラーの音楽に嫌悪の念をあからさまに示していましたし、マーラーを人としても好いてはいませんでした。通りでであっても挨拶すらしませんでしたし。
当時はマーラーの人柄を評価していても、彼の音楽を理解出来ない人は多くいました。例えば作曲家のシャルバンティエは、「なぜマーラーはあんな低俗なものを音楽にするという、間違いを犯したのだろう」といっています。「交響曲第1番」第3楽章の葬送行進曲を寄席音楽のようだとも。それでもシャルバンティエは人としてのマーラーを評価していました。トスカニーニにはそれがなかったのです。 |
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マーラーはイタリア音楽に好感を抱いていなかったのですか? |
アルマ |
すべてのボヘミアン(オーストラリア人)の音楽家に当てはまるのですが、彼もイタリア人の熱狂的な音楽性とは折り合うことが出来ませんでした。もっともトスカニーニとマーラーの関係はこれとは少し違っていましたけど。
彼はどんな些細なことも見逃さなずに聴きつける、恐ろしいほどの耳を持っていました。トスカニーニの≪トリスタンとイゾルデ≫を聞いた後にも大したことはないと評価していましたね。 |
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マーラーは晩年には神経質になり、その反面社交的になっていったといいましたね? |
アルマ |
そこに矛盾があったとは思いませんね。≪第8交響曲≫を作曲した後にはの底なしのような憂鬱と彼岸への諦めを抱きながら、どれでも自身ありげにサロンを徘徊して社交ぶりを発揮していました。一般にいわれる精神分裂や錯乱などはまったくありません。
人は彼が人見知りでないと分かると、やたら近づいてくるようになりました。ある人はマーラーに8台のピアノを使った≪魔笛≫の編曲を以来し、彼はそれを1920年までには完成させると快諾したのです。昔のような恥ずかしがりやの性分はすっかりなくなっていました。
彼がメトロポリタン歌劇場総監督の仕事を断ったとき、何度も私にこれで良かったのかたずねてきたので、私は「もちろん正解よ」といってあげました。 |
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でもアメリカ滞在はあなたとマーラーにとって、マイナスでしかありませんでしたね。 |
アルマ |
そんなことはありません。金持ちのパトロンの基金が設けられ、そのおかげで彼は自分の意のままになるオーケストラが持てたのです。ニューヨーク・フィルハーモニーと競演する機会がありましたが、それにたいしても大変満足していました。
マーラーの音楽がナチス・ドイツの時代にドイツとオーストリアで演奏を禁じられていたときに、アメリカの多くの都市では彼の9つの交響曲と「大地の歌」が演奏されました。マーラーはアメリカにおいて、自分のまれ故郷よりもはるかに偉大な人物と評価されたのです。 |