世紀末ウィーンの華、グスタフ・マーラーの妻アルマ。

彼女は絶対的な妖精と呼ばれ、音楽(マーラー)、文学(ヴェルフェル)、建築(グロピス)、美術(クリムト)とあらゆるジャンルの芸術家たちを魅了し、彼らの創作意欲を刺激した。

多くの芸術家を虜にし、共に暮らした85年の生涯。

アルマの履歴
1876年
8月31日ウィーン郊外で生まれる。父親は風景画家、母親は歌手という芸術一家。
1886年
裕福な少女時代を送る。
ゲーテを読んでくれた父親を熱愛し、少々軽薄な母親を軽蔑する。


10歳のアルマ

1892年
父親が死去。母親は父の助手だったブロンドの大男と再婚。アルマはこれにショックを受ける。
1896年
17歳。美しいメゾ・ソプラノの声でワーグナーのあらゆる曲を歌い、対位法を学び、作曲の勉強に夢中になり、彫刻を手がけ、多くの本を読破していた。

この頃、35歳の高名な画家、グスタフ・クリムトと恋に落ちる。


クリムトが撮影したアルマ

1901年
22歳の11月に、ツッカーカンドル家の夕食に招待されてグスタフ・マーラー(41歳)と出会う。翌日、マーラーの招待でウィーン官邸オペラ劇場で≪ホフマン物語≫の総稽古を見る。
その翌日、マーラーから詩が届けられる。

数日後、マーラーが引っ越したばかりのウィーン郊外の自宅を突然訪問。積もった雪道をアルマとマーラーは並んで歩く。家に戻るとアルマの部屋で若い娘はマーラーに熱烈なキスをされる。アルマはあまり望まないまま、マーラーの求める結婚に承諾。

12月に婚約式をおこなう。
1902年
3月9日、マーラーと結婚。新婚旅行はペテルス・ブルク。

マーラーが「交響曲第3番」を指揮するため、クレフェルト音楽祭に同行。夏をマイアーニッグの別荘で過ごし、秋にマーラーが「交響曲第5番を完成。長女マリア・アンナ誕生。

この頃からマーラーとの生活に、翼をもぎ取られたような窮屈さを感じ始める。
1903年
フランスの画家、シャルパンティエがウィーンを訪問し、アルマを<ウィーンの華麗なミューズ>と表現する。
1904年
6月に次女マリア・ユスティーネ誕生。この年にマーラーは「亡き子をしのぶ歌」を完成。
1907年

27歳のアルマと2人の娘

マーラーが官邸オペラ劇場を辞任したため、彼がニューヨークのメトロポリタン歌劇場と契約するよう力を尽くす。

7月、長女マリア・アンナがジフテリアで死去。
ロシアのピアニスト、ガブリロビッチがアルマに夢中になる。

12月、パリ経由で渡米。流産。
1908
1月1日、マーラーがメトロポリタン歌劇場でトリスタンとイゾルデを指揮。4月にハンブルク経由で帰国。

マーラーのプラハでの「交響曲第7番」の初演に同行。

秋に再び渡米。アルマを恋するガブロヴィッチが表れる。この後、再び流産。
1909年
春に帰国。マーラーはロダンのモデルを勤める。

10月に渡米。ニューヨークで社交生活を楽しむ。
1910年
春に帰国。湯治先で26歳の青年建築家グロピウスと出会い、激しい恋に落ちる。それに苦しんだマーラーはフロイトの治療を受け、「交響曲第8番」をアルマに献呈。

秋に4度目の渡米。その直前にオリエント急行でグロピウスと密会。


ワルター・グロピウス

1911年
マーラーの病状が悪化し、5月11日に死去。アルマ31歳。

マーラーの主治医だったフレンケル博士から結婚を申し込まれる。11月にブルーノ・ワルターが「大地の歌」を初演したさい、未亡人として聴衆の前に現れる。
1912年
オスカー・ココシュカと出会い、2人でナポリに旅行。中絶手術を行う。


ココシュカが書いたアルマと彼自身

1913年
グロピウスにココシュカとの関係が知られ絶交。
1914年
ココシュカとの関係が悪化。中絶手術。
1915年
ココシュカ入隊、グロピウスとベルリンで結婚。36歳で7回目の妊娠。
1915年
マノンを出産。
1917年
詩人で劇作家のヴェルフェルと出会い急速に親しくなり、3ヶ月で愛人となる。妊娠。果たして誰の子か?
1918年
7月にマルティンを未熟児で出産。バウハウスの設立に取り掛かっていたグロピウスに、ヴェルフェルとの関係が知られる。
1901年
マルティン死去。グロピウスと離婚。40歳。
1929年
ヴェルフェルと49歳で3度目の結婚。直後に娘のアンナも3回目の結婚。エジプト、レバノン、パレスチナに新婚旅行。


アルマとヴェルフェル


アルマの再婚を知ったココシュカは、彼女に似せた等身大の人形を作らせる。そして人形のための宴が開かれ、大勢の招待客の前で首が切り落とされた。

アルマに似せた人形で「沈黙の女」と命名される

1938年
イタリア旅行の間にオーストリアはドイツに併合され、ヴェルフェルは亡命生活を送る。アルマはウィーンに戻り、アンナと共に脱出。ヴェルフェルとロンドン、南仏を転々とし、トーマス・マンの息子らとアメリカに亡命。ロサンゼルスに住む。


年下ユダヤ人との結婚により亡命生活を強いられる

1939年
「グスタフ・マーラー回想と手紙」をフランスで出版。
1945年
ヴェルフェル死去。アルマは難聴の上、酒びたりの生活を送る。
1947年
ウィーンを訪問し、アメリカに戻ってからはニュー・ヨークで暮らす。
1949年
70歳の誕生日にココシュカからラブ・レターが届く。
1960年
81歳で自伝「私の生涯」を発表。


81歳のアルマ

1964年
12月11日、肺炎のため死去。享年85歳。

HOME
戻る

inserted by FC2 system